SGRAかわらばん

  • エッセイ441:奇 錦峰「憂慮すべき現在の中国大学生(その6)」

    「憂慮すべき現在の中国の大学生(その1)」「憂慮すべき現在の中国の大学生(その2)」「憂慮すべき現在の中国の大学生(その3)」 「憂慮すべき現在の中国の大学生(その4)」 「憂慮すべき現在の中国の大学生(その5)」   次は小、中、高校の責任   今の大学生達の著しい人間性の欠如の理由の一つは、人間社会での共存能力がとても低いことによると思われる。他の人とうまく交流できない。人間関係、つまり同級生、同寮生、同校生との関係が希薄なことは、恐らく史上まれなことと思われる。   今の大学生達が大学に入る前の12年間の小、中、高校教育の段階では、面倒を見てくれている両親や祖父祖母以外の他人と付き合うのは、たぶん講義中のクラスメートだけであり(例えば食事を一緒に作って食べるとか修学旅行など、講義以外の集団活動は、中国の小、中、高校では殆どない)、本当の社会的な人付き合いということをまだ知らないのだ。しかも唯一朝晩付き合ってきた親たちは世話、譲歩、溺愛……つまり子供にサービスするだけなので、いわば王子様、王女様ばかりを育成してきた。小、中、高校においては、このような人間で構成されたクラスを、責任を持って指導しなければならないのだが、問題に気づきながらも教科書を教えることのみに力を尽くす。責任を感じて躾をしようとした一部の教師は、生徒に罵倒され、殴られたり、酷いことに殺されたりすることもあったのだ。   大学で寮生活を始めると、高校時代まで続いていた試験の圧力がなくなり、教師や父母の監視からも遠く離れ、突然、彼らは人生の解放感を抱き、初めて束縛されない自由の楽しさを謳歌できることを知るのだ。しかし彼らが分かっていないのは、これは解放ではなく、大人になって自己コントロールが必要な人生が始まるということである。ここを理解せず、無秩序に行動し始める。丁度この時期に、いろいろな誘惑(唯物的な誘い、セクシュアリティ……)で溢れた現代社会の中に放り出され、彼らは人間の動物的本能の力に勝つことが出来ず、本能のまま生きる。そのため、小、中、高校の教育は子供に何を教えたのか?という疑問が生じる。この時期の教育は、生き残ることばかりを教え、真面目な人間になることを教えなかったと言える。   大学の責任   中国の大学には問題がたくさんあるけれど、大学教育と関係のあることについて列挙する。   1. 大学生募集の「大躍進」vs 学生の質の大暴落   4年間連続して大規模な大学生の募集拡大をした結果、2002年に中国の大学教育の大衆化(国連の定義では、大学の入学生数が、入学可能である年齢の人口の15%に達すると、大学レベルの教育が大衆化に達成したと言う)が、国家の「十・五」(第10回の5年経済目標)目標期日である2010年より8年も早く実現した(17%に到達した)。このスピードは、同じ期間中の国の経済成長率よりはるかに高いものであった。しかし逆に、この教育「大躍進」が国内外の厳しい批判を受けることになった、例えば「科学的合理性の欠如の大躍進」だとか、「人類文明の規律違反」「大学教育の軽蔑」などと言われている。   2006年の第3回中外大学学長フォーラムの際に、米国スタンフォード大学学長ジョン•ヘネシー博士は、「盲目的に大学募集人数を拡大することは、特にトップクラスの大学には、教育の質に影響を与える。なぜならば、短期間に優秀な教師を十分に確保することができないから」と率直に批判している。   この批判は事実と合致している。中国の大学が募集した学生数は爆発的に拡大したが、一方教師数をあまり増やさなかったため(学生の数が20~30倍も増加したのに、教員の数は平均2倍も増加しなかった)、教師と学生の比率が極端な数値になってしまった(一説には、教師1人に学生30人)。しかも教師の素質の向上に力を十分入れなかった結果、ハイレベルのエリートや、学術チームのリーダーとしての優秀な人材が著しく不足してしまったことは、誰でも知っている事実となった。また大学教員の国際化率も非常に低く、全国的に外国人教師の割合は1%未満となっている。   さらに、国全体のGDPを重んじる管理システムが大学教育管理にも流れ込み、大学教育が、あたかも前例のない産業化の道へ滑り込み、大学精神が衰退、学術的倫理観を失い、アカデミックな雰囲気を一変させ、商売重視の方向へ進み始めてしまった。   1998年から始まった大学の合併、昇格(専科大学が総合大学にアップグレード)、新設などの大学「大躍進」は、1950年代末にあった中国の経済「大躍進」とあまり変わらないと言われている。現在中国全土に2000校を超える大学があり、世界で大学数が一番多い国になっている。人口が多い上に大学への入学率が高いため、中国は今や2500万人以上の大学生を有し、毎年700万人以上の卒業生が大学から排出されている(統計年鑑によると、中国では、毎年1000万人近くの若者が大学受験をし、700万人が入学する)。今や中国は、何処もかしこも大学生の時代になった!中国の大学教育は質を犠牲にしてまで、数量を増やし、国民の教育レベルを高めることを目指したが、実際には逆の結果を得たと言われている。   中国の大学教育の質に対しては数多くの評価と解釈があるが、そのほとんどが、大学のハードウェア及びソフトウェアの建設の確立が、大学教育の規模の急速な拡大(大学生募集の大躍進と大学規模の無限の拡張)及び大学教育の資金調達問題の解決に追いつかないため、中国の高等教育の質の管理に大きな影響を与えたと指摘している。   2006年のオンライン世論調査では、35 %の回答者が「大学では、役に立つことをあまり学ぶことはできなかった」と遺憾の意を示した。面白いことに、これは「知識の低下」または「勉強無用」を意味するものではなく、大学は無くてはならないけれども、あっても役に立たない今日の大学教育を批判していることになる。   さらに学部学生だけではなく大学院生の募集も最近20年の間に11倍も増加し、毎年20万人が大学院に入学する(毎年100万人以上の大学生が受験する)。しかし高学歴の氾濫のため、「大学院生の質の低下」が顕著で、大学院生の雇用が著しく困難になっている。例えば2013年には、大学生の就職率が30%、大学院生の就職率が25%であった。一方、皮肉なことは数多くの企業の工場が非常に深刻な人手不足問題に直面しているが、労働者をいくら募集しても応募する人がいない状況にある。何故こんなことが発生するのか?その理由は単純だ。大学卒業生の多くは肉体労働をしたくない。工場での収入が少ないのももう一つの理由らしい。結局、これも高等教育の大衆化によるものと思う。そのため、今の大学生達がはっきり認識していることは、卒業はイコール失学、イコール失業ということだ。   2. 中国の大学の授業料は世界一高い?   中国の大学では、1988年から授業料の徴収を開始し(最初は試しとして200元/年)、1995年には800元になり、2005年には急に6000元まで上昇した。一方、同期間における都市住民の一人当たりの年間所得は、4倍増加、物価要因を控除した後では、2.3倍の実質の成長であった。すなわち、大学の授業料は20年間で、25倍も増加し、一人当たりの年間所得よりは10倍も伸びたことになる。中国はこの20年間、「世界レベル」の大学を構築しようとしてきたが、実際はまだ世界トップクラスの大学を作ることができず、一方で「世界トップクラス」授業料をすでに始めたと言える。   都市及び農村の一般住民が教育経費の激増に耐えられなくなり、教育の社会的格差調整の役割も果たせなくなってしまった。今は知識の時代で、教育が受けられないと貧乏な人はさらに貧しくなる。もし「貧困の罠」に落ちてしまうと、自分自身を救い出すことができなくなる。社会の各階級の間のコミュニケーションと相互連絡がブロックされると、階級対立及び衝突の可能性が高くなると危惧される。   高価か、安価かを判断するためには、相対的な購買力を配慮しなければ比較できない。2005年6月1日「オリエンタルモーニングポスト」に、中国系アメリカ人の学者薛涌氏が「一人当たりのGDP は中国、米国、日本でそれぞれ1,000ドル、36,000ドル、31,000ドル」であると書いている。つまり米国と日本は中国の36倍と31倍だった。薛氏によれば、日本の大学の授業料は、世界でも高い方らしい(日本の高い方を年間11万中国元に仮定し、一人当たりGDPの比でこの11万元を計算すると中国の3550元に相当すると書いている)が、この数字を「支払い能力」という観点から見ると、大学授業料が中国の方が日本よりも3倍高くなるという。さらに実際の費用を全部計算すると、授業料は6000元、宿泊代、食事代を合わせると10000元以上は普通である、8億人の農民の年間一人当たりの収入が3000元(2008年前後)であることを考えると、比較にならないと言う事実を忘れないでほしい(あるマスコミによると、2013年には農家年間一人当たりの収入が8896元まで上がったというが)。   昨今、このような各階級の間の目詰まりが発生した。中国「大学教育の公平問題についての研究」の報告は、「高学歴の増加に連れて、都市と農村との間のギャップが徐々に拡大している」と指摘している。都市では高等学校、専門学校、専科、大学、大学院の学歴を持っている人の割合は、農村の人口の3.5倍、16.5倍、55.5倍、281.55倍、323倍である。低投資、高授業料が引き起こした不正競争は、社会的紛争の発火点になりつつある。学費が高い、有用な知識が習得できない、卒業したら就職不可能……。こんな大学が若者たちに憎まれるのは当たり前だと言わざるを得ない。(つづく)   ---------------------------------------------------<奇 錦峰(キ・キンホウ) Qi Jinfeng>内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA会員。---------------------------------------------------       2014年12月10日配信  
  • エッセイ440:謝 志海「カジノ法案のゆくえ」

    9月末に始まった国会は、開始早々から閣僚の相次ぐ辞任などにより、法案審議が遅れた。その中で、遂に審議を断念した案件に統合型リゾート(IR)推進法案(カジノ法案)がある。安倍首相も経済成長戦略の一環と考え、カジノを解禁にするかどうか、またカジノを含む総合エンターテイメント施設の建設と整備を進めるか、この審議については国会だけが盛り上がっていて、国民は冷ややか、もしくは興味を持っていないという見方をしているメディアや有識者が多い。   日本にはすでに公営賭博(公営競技すなわち、競馬、競輪、競艇、オートレース)やパチンコがさかんではないかというのが、日本在住の外国人ジャーナリストの視点で、日本に暮らす外国人も同じ見解だろう。特に、パチンコ•パチスロは約20兆円産業というのは有名な話だ。カジノ法案について議論する際、賛成派も反対派もこのすでにある公営競技については触れず、統合型リゾートの建設は外国からの観光客を呼び込める素晴らしい施設となり、日本国民の雇用も増えるなど、壮大だが具体性に欠けた内容で、経済効果うんぬんと言われても日本国民にはカジノの必要性は伝わらないのかもしれない。   ではカジノ合法化において、地域振興や経済効果などを試算する経済学者たちはどう予測しているかというと、カジノ収益は予測できても、ギャンブル依存症の程度、有害性における社会的費用は試算が困難であるとしている。ここでも公営競技とカジノ法案は切り離されている。日本には公営競技やパチンコの依存者がどのくらいいて、どのような犠牲があるか統計サンプルが取れそうなものなのに。カジノ法案を巡っては、カジノ利用に関し、シンガポールや韓国のように国民と観光客を区別するかどうかも論点だが、すでにいるギャンブル好きの日本人がどの程度、カジノに流入するのかさえも推計されていない。   日本政府としては一体どのようなカジノリゾートを目指しているのだろう?安倍首相は今年シンガポールのカジノへ視察に行かれたそうだし、国会議員らもマリーナ•ベイ•サンズへ押し掛けているということは、その辺りを目指しているのか。しかし、アジアにはすでにいくつものカジノリゾートがある。今更後追いしても日本にカジノ目当ての観光客は来るのだろうか。少なくともアジアに今あるカジノとは差別化した方が良い気がする。   もし日本が本気で持続可能なIRを目指すのなら、ハリウッド映画が参考になるかもしれない。近年、ラスベガスが舞台の映画では、ラスベガスはもはやカジノの為の場所として描かれていない。単に気晴らし、バカ騒ぎしに行く所という設定だ。現在のラスベガスはカジノ無しでも楽しめる仕組みが随所にちりばめられている。例えば、ラスベガスでしか観られない大物歌手のコンサートやショー。各ホテルは集客の為、部屋のインテリア、ビュッフェの食事に工夫をこらし、全米や世界で話題のレストランも出店させる。ニューヨークやロサンゼルスで有名なナイトクラブも入っている。これらのエンターテイメント目当てで来た人がカジノもちょっとしてみるかという流れになっている。コンベンション施設もしっかり整っているのでビジネスで来ている人も多い。多様な目的の人が集まり、一大ショービジネスタウンとなっている。無論、このようなオープンで安全なイメージを維持すべくラスベガスにはカジノ場だけでなく至る所に監視カメラが設置されていて、おそらくアメリカ人はその存在に気付いているから、無茶をしないのであるが。   日本にラスベガスを作ることを勧める訳では無いが、海外のカジノの好例、悪例をもっともっと研究し、日本に合う持続可能なカジノ施設を含むIRを具体的に示し、何より日本国民から同意を得られる施設を目指す事に注力すべきだ。国際観光業での経済利益を狙うだけではIR実現そのものがギャンブルになってしまう   -----------------------------<謝 志海(しゃ しかい)Xie Zhihai>共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。-----------------------------   2014年12月10日配信  
  • エッセイ439:奇 錦峰「憂慮すべき現在の中国大学生(その5)」

    「憂慮すべき現在の中国の大学生(その1)」「憂慮すべき現在の中国の大学生(その2)」「憂慮すべき現在の中国の大学生(その3)」 「憂慮すべき現在の中国の大学生(その4)」   まずは両親の責任   以下の3点(溺愛、放任、偏向)から今の親たちの責任を追求してみましょう。   1. 溺愛   親が何でもかんでも子供のためにやってあげる、その程度が酷すぎる。大学に来る前のことは後述するとして、まず、新入生が自分一人で入校手続きに来ることはほとんどない!サーバントアテンダントのように両親や祖父ちゃん婆ちゃん、或いは親戚の人々が大勢で来校し、かつトランクを引っ張ったり、いろんな荷物を運んだりして、その忙しい風景は賑やかである。一方、本人は何も持たずにぶらぶらやってくる。当然のことながら、両親が入校手続きを全部やってあげ、更には宿舎の掃除、ベッドメイク、等々を全部担当する。幼稚園に子供を送ってあげていた時より細やかだ。しかし本人達はこれを当たり前のことだと言うのだそうだ。もっと傑作なのは、本来「見送り」に来た親が、学校の近くに部屋を借りて、子供に付き合ってあげる(洗濯、部屋の片付け、食事の支度などをしてあげるため)ことも結構あるそうだ。何故両親達は、このようにしてあげるのか?彼らの理屈を一言で表すと、とにかく「心配、不安」である。例えば「家(うち)の子は今まで家を出たことがない……最初の旅なので」とか、「重要な書類を紛失する恐れがある」とか、「治安が悪くて心配」とか、また「子供は自己制御力(セルフコントロール)が弱いから」、これも心配、あれも心配、例えば朝寝坊、夜のネット遊び、そして男女同棲……。この親達は、どうして自分の学生時代のことを考えないのか、誰だって生まれた時から何でもできるはずはない、やらせなければ永遠にできないということを何故忘れてしまったのか、不思議だ。   2. 放任   大学に入学した子供の生活費が、ほとんどの親達にとって非常に難しい問題だそうだ。すなわち、多く渡しすぎると金使いが荒い習慣がつくことを心配し、他方、少なすぎると不当な扱いを受け、つまり苦しい生活を送らせてしまうことをまた心配する。親たちの暖かい心に感心はするが、言い換えれば、まさに世の中に子供を可愛がらない親はいないということだ。中国では父母が金持ちであれば、子供も豊かなのが事実で、「豊かな第二世代」という新しい用語も近年出来ている訳はこういう現実があるからだともいえる。しかし「親がいくら金持ちでも子供たちに贅沢はさせない」と言う欧米人の哲学との間には、どんなに差があるだろうか!中国の諺でも「子を甘やかすのは殺すようなものだ」と言われているのに、今の親達は、これを忘れたのか?   大学の食堂(特に国立大学)は政府が補助金を出しているので食事代は安い、おそらく全国どこでも5 元か6 元(1元=19円)で一人分の食事が十分購入出来、しかもキャンパス外の飲食店の物より清潔且つ安全だ。しかし一部の大学生(つまり生活費を多く貰う人)はメンツの為か?美食者?なのか、よく外食し、しかもパーティー、食事会(集まり)などを必要以上にやるのだ。この様な贅沢な習慣を、親が黙認するから彼らは平気でやる。   コンピューターは、学校の自習室、図書館にたくさん設置されていて、インターネットをするには非常に便利だ。しかも、大学2年生までは基礎教育なのでごく少数の専門以外コンピューターはいらない。しかし今の学生は1人1台(しかも全部ラップトップ)持っており、基本的にはゲーム遊びに使用されている。特に、家庭の経済状況がよくない学生は、自分で用意する必要はないのに!外国語を勉強するためどうしても必要と親に言っていた理屈は、全部嘘だ。ゲームに夢中になり、その結果、学業を断念せざる得なくなる「事件」は少なくない。パソコンを保有することの悪い点は、絶対に良い点より多いのだから、買わない方が得策だ。   大学生が、数年前まではMP3/4、今はスマートフォンで音楽を楽しむか、ゲームなどのネット遊びで時間を費やしている現象は極めて一般的になってしまっている。寮の中に固定電話、大学の講義室の近くや図書館など、至る所にカード電話が設置されていたが、今の大学生は、みんなスマートフォンを持ち歩いていて、これらの電話を使う人がいないため、ほとんどが取り払われた。はっきり言って、携帯電話やコンピューターは必需品ではない。大半の学生にとって、携帯電話で親と連絡する必要があるのは、お金を使い過ぎて「お~い、ちょっと送金してくれ」と言う時のみだ。   大学生の中にもう一つの怠け(横着)行為がある。それは、教師が黒板或いはスライドで示した宿題(課題)を、数多くの大学生が書き取らずに、講義後にスマートフォンで撮っていく。そのため今の学生は文字を上手に書く能力(楷書)に欠け、幼稚園の子供より下手だ。またほんの少しの距離でも歩きたくない、すぐ電話!隣の部屋にいる人とも電話で連絡するのが普通だ。いわば今の大学生はなるべく力を出さずに、楽に生活、勉強するということだ。   多くの親達、特に小さい町や田舎の低収入の家庭は「自分の収入の範囲で生活する」という基本的なことを忘れたように、家庭の収入の大半か全部(スマートフォン、パソコンなどの費用は、普通の田舎の家庭にとって耐えられないぐらい高価だ!)を大学生の子供に費やしてしまうことを、一般の人は理解できないだろう。中国式の考えでは「親がどんなに貧乏でも子供に貧乏をさせない」、せっかく子供が大学に受かったので、お金が必要な時には渡し、品物が欲しい時には買ってあげるべきであるという哲学がある。このような愚かな考え方は、自分を苦しめ、子供を甘やかし過ぎ、悪い習慣を助長させる他に、良いことは一つもない。今日の中国の大学は、「80後(八零後と言う:1980年代に生まれた人)」が卒業し、「90後(九零後:1990年代に生まれた人)」が在籍している。各方面の情報が示すのはこの90後は80後より更にダメだということである。消費の面ではいうまでもなく、上述した各方面で悪化が著しい。心が痛いのは今日の大学生の生活支出は、一般的に両親の生活支出より高いが、親たちはこの問題の深刻さにほとんど気が付いていないことだ。そのため、大学生の悪いこと全ては、親が放任しすぎで生まれたものだとも言えるだろう。   3. 偏向   今の大学生の親達は、子供が大学に入るまで、学業を監督する以外は何もしなかった。教科書の内容以外に何も教えなかった。日常生活の中で、家事を一切させず、物質的生活は全部満足させていた。そのため大学生になった時に、物欲が強い、親の苦労に感謝しない、金使いが荒いなど、良心が欠如した行為をするようになるのは当然だ。1990年代以降、両親、小、中、高校の教師まで、試験の点数だけを重んじてきたため、幼い頃から彼らの心の中では勉強が唯一の良さと悪さの基準になり、人間社会全体のことに無関心になってしまった。子供たちは長い期間、家庭教育や法を守ることなどの社会教育を全く受けてこなかったのだから、今の大学生の人間性が正常に育成されるはずはないだろう。社会学者の視点から分析してみれば、この国の子供向けの教育の多くは無駄になっていたようだ。人類文明が21世紀に入っているのにもかかわらず、教育が逆の方向へ向かっているのが、どうしても理解できない。(つづく)   ---------------------------------------------------<奇 錦峰(キ・キンホウ) Qi Jinfeng>内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA会員。---------------------------------------------------   2014年12月3日配信
  • エッセイ438:外岡 豊「飯舘村参観記:菅野宗夫氏の試みについて」

    真手(までい)という言葉は初めて知ったが、江戸時代あるいはそれ以前から日本の伝統的な社会を支えてきた、勤勉、善良な農民の生活意識と行動を表した言葉に見える。なかなかよい表現である。持続可能社会を目指せ、というのが環境問題研究者として私が社会に強く訴えるべき重要な事項であり、日夜それを考えているが、要は、化石燃料と原発への依存を脱却することと同時に、社会全体が真手になればかなり達成されるはずの目標である。だから飯舘村の再生への試みは持続可能社会への入り口探しなのであり、日本中をその方向に向けてひっぱってゆく、最先端を知らずに担っているのである。   他の村にはない脱原発への強い意志がここに集中しているのは当然であろう。両方を併せ持っている村がここにある。真手な生活を実践している人々には当然のように考えられることが、被災していない東京では完全に忘れ去られており、飯舘村に来て菅野さんの話を聞くと、都会人が何を失っているのか気づくよいきっかけになるだろう。真手の精神と前向きな試行錯誤への姿勢は、突然奈落の底に落されたような事態においても、あるいは見えにくい放射能というやっかいな汚染状況においても、再生への着実な原動力になる。このような人がいる村はたとえ一度どんなに人口が減ろうと、いつか立ち直ることができるだろうと確信する。行政の混乱で明らかなように、実は都会が、東京の社会が、霞が関も銀行も大手企業も、当事者能力に欠けている人が多く、菅野さんのような頼もしい人が見当たらないのである。それは実は非常に深刻な事態なのであるが、それを深刻と考えていない人が大勢であることそれ自体が、実は見えにくい危険事態なのである。奇妙なことに放射線の見えにくい汚染と都会の見えにくい無責任さとが符合しており、複合化した更なる危険に持ち上げられているようである。   それは大学も似たようなもの、自分の組織で打破できていないので大きなことは言えないが、旧態依然の規則にしばられ、というより柔軟な運用ができず、ちょっとしたことができない、許されていないと言われて、成果、効果がそがれてしまうことは多々ある。教員も事務方も、どちらも自分はこの件の主役ではないと言って逃げてしまい、結果に責任を持とうとしないのである。このような事態はイギリスの大学でも同様であった。数年前までの中国は全く逆の問題がありそうに見えたが最近どうなっているのかはわからない。   高校時代から田舎の農村の景色を水彩画に描いてきたが、それは里山に象徴される自然と一体化し、その恵みをいただいて生活する本来の日本の生活への共感が裏にあった。まさに真手な生活の場としての農村集落と伝統民家にひかれるものがあった。今、環境問題の専門家として、若いころ描いた絵の世界に回帰している。半ば予定されていたかのような人生の変遷は自分の根底にある価値観がそうさせているのであり、それは神から与えられた使命のようなもの、自分の内部のこだわりとしてできること、できないことが明らかにあるのである。   今回渥美財団関口グローバル研究会の御縁でようやく飯舘村に来ることができ、大震災から3年半後に初めて被災地を体験する機会を得たが、そこで思いがけなく旧知の田尾さんの御世話になることになった。それは偶然以上の何かが隠れていると思わざるを得ない。田尾さんとは 2008年頃同じ早稲田大学理工学部の尾島研究室に机を持ち時々そこに居合わせた関係で、そこでの接触が今回また引き合わせていただいた裏に無意識の引き合いがあったのだろうと理解している。田尾さんが福島再生のNPO活動家として現地で大活躍されていることを今回知った。また博士論文の副査でもあった恩師木村建一先生が参加されるということも忙しい中であえて参加することを後押しするものであった。来てみると汚染度が高いという小宮地区の大久保金一氏宅で 90才の大老母の世話をしていた井上充成氏が偶然、藤沢の湘南中央病院(辻堂)に勤務している方で、聞いてみると父、豊彦のことを知っており、ここでも偶然の裏に必然につながる何かの引き合いがあったのだろうと感じさせるものであった。   河北新報の寺島氏の話を菅野宅で聞いたが、被災から3年、若い人たちが帰村しない傾向が明らかになりつつあり、高齢者ばかりではいずれ村の人口はさらに減り、行政を維持できなくなるのではないかという問題を予想させる厳しい話となっている。原発事故で起きたきわめて特殊な状況、それゆえの多大な困難、それを改めて考えさせられる話であったが、逆転して考えれば、そこに農家の子孫でもない農家経営希望者に大きな機会を与えるものであり、一転して大きな希望に変える可能性すら見えてくるようにも思える。   よそ者を受け入れなければ村が成り立たない、とくに若い人たちがいてくれなければやって行けないとなれば、保守的な村落の慣習を超えて新規参入者を迎え入れることができれば、これまでの農村にない気風と新しい知識を持ったよそ者が入ってきて新しい農村を創出する絶好の機会となるであろう。行き詰まった世界経済の悪影響を避けてその外乱に乱されない別の日本社会をここから構築することができるのであり、たまたまこの数日下げ続けたニューヨーク株式の急落が暗示するように、近々来るかもしれない世界経済大崩壊は、福島原発事故以上に巨大な世界危機を引き起こす恐れもあり、飯舘村の試行が、その世界危機を避ける予備的な先行対応になっている可能性もあり、目先の危機に真手に取り組むこと、その積み重ねが思わぬ神の加護をもたらすかも知れず、真手な飯舘村こそは日本の、世界の希望の灯なのである(と思いたい)。   ふくしまスタディーツアー「飯舘村、あれから3年」報告   ---------------------------------------<外岡豊(とのおか・ゆたか)Yutaka TONOOKA>神奈川県出身。県立湘南高校卒業、早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学院終了、工学博士。埼玉大学経済学部社会環境施系学科教授。早稲田大学研究員、大連理工大学と西安交通大学の客座教授、兼務。元Imperial College、Visiting Prof.、建築学会地球環境委員会委員長、同論理委員会委員、低炭素社会推進会議(18団体で今年設立)幹事、森街連携会議代表、エコステージ協会理事、他専門分野は都市環境工学、環境政策、とくにエネルギーと環境のシステム分析。最近は気候変動対策評価研究を発展させて、持続可能社会について考察中。SGRA会員。---------------------------------------   2014年12月3日配信
  • エッセイ437:謝 志海「忍びよる子供の貧困」

    最近新聞等、メディアの見出しで時々目にする「子供の貧困」。どこの子供の貧困を意味するのかと思えば、日本だった。これは信じられないことだ。日本の子供はみんなゲーム機を持ち、小学生のうちからスマートフォンを持っている子もたくさんいる。もちろん身なりも貧困とは到底信じられない。   日本経済新聞の記事を読み進めてみると、厚生労働省がまとめた国民生活基礎調査で、平均的な所得の半分を下回る世帯で暮らす18歳未満の子供の割合を示す「子供の貧困率」が、2012年に16.3%と過去最高を更新したという。前回の2009年の調査から0.6ポイント悪化している。なるほど、数字ではっきりと現れているのだ。子供は労働しておらず、収入が無いので、親の所得からの算出方法となる。同省は子供の貧困率上昇の理由として母子世帯が増えていることを指摘している。女性は派遣社員や、非正規雇用として働いている人が多いので、世帯収入が低くなるのも必然とも言える。世帯収入で子供の貧困を測るなら、正社員で終身雇用の父を持つ子供、またはその父親と仕事をしている母(共働き)を持つ子供との世帯収入の差は格別に大きいだろう。正直なところ、個人的視点だが日本の子供のイメージは、先述の通り物に恵まれ、親はお受験のために塾や習い事に惜しみなくお金を掛けていると思っていた。私は、貧困率の上昇もさることながら、この収入格差が気になってきた。収入格差によって、様々なチャンスに恵まれる子とそうでない子の差が拡大されることは、今後の日本に何か悪い影響をもたらすのではないかと。   親の所得はそれぞれ違えど、子供達は格差無く教育を受けるチャンスがあれば良いのではないだろうか?日本は、塾通いが主流になっている。生活が苦しい家庭は塾の月謝を捻出出来ず、子供に学習習慣を身につけさせることすらできないのか?そもそも何故日本の子供は塾に通うのだろうか。一番は受験対策だろうが、もう一つは学校の教育力が落ちているからということだ。信じがたい事実だが、OECDの調査によると、日本政府支出の教育に占める支出は32カ国中31位である。学校教育が十分でないなら日本の子供の塾通いはしばらく続きそうだ。このまま子供たちが親の所得格差に翻弄され続けたら、どのような日本になるのだろう?   親の貧困環境が子供の貧困に深く影響していることを、アメリカの著名な経済学者であり、コロンビア大学地球研究所長(The Earth Institute)のジェフリー サックス氏(Jeffrey Sachs)は、以前より多くの面から問題視しており、アメリカでは貧困の状況が世代を超えて伝染していて、この連鎖を断ち切るべきとしている。彼の論文によると、アメリカでは、離婚家庭に限らず、無職、病気はたまた投獄されている親の子供が貧しい地区に住み、教育レベルが低い学校に通うという貧困に閉じ込められたサイクルの中にいる。そしてそのような環境下で育った子は最終的に貧しい大人、すなわちスキルも無くまともな職につけないような大人になってしまうという負の連鎖が続く。このような貧困状態の子供の増加は国の経済成長をも鈍らすと警鐘を鳴らす。サックス氏が更に強調するのは、これは物質的に豊かであるアメリカで起こっていることだ。先進国日本でもこの負の連鎖は有り得ない話では無いのではなかろうか。   手遅れになる前に、子供の貧困とその連鎖を食い止めるには?その解決策もサックス氏が教えてくれる。彼が昨年発表した論文「苦しむ子供たち、苦しむ国」では子供たちに平等の機会を与える事を徹底すべく、公的資金を投資すべき、としている。日本には「子ども手当」があるが、うまく機能しているのだろうか?次回の調査で日本の子供の貧困率が下がることを期待する。   --------------------------------<謝 志海(しゃ しかい)Xie Zhihai>共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。--------------------------------   2013年12月3日配信
  • エッセイ436:奇 錦峰「憂慮すべき現在の中国大学生(その4)」

    「憂慮すべき現在の中国の大学生(その1)」「憂慮すべき現在の中国の大学生(その2)」「憂慮すべき現在の中国の大学生(その3)」   4. 政治的には勇ましいが人柄は最悪   今のほとんどの大学生たちは、現実のことに無関心(例えば職場の汚職、腐敗した役人、災害救援、慈善活動など)だが、他方、信じられないほどの「愛国心」及び「ナショナリズム」への情熱を持っている。他人の政治的な話を疑うことなしに信用する。所謂“風に沿う”と言う中国の伝統を完璧に伝承している。例えば、無差別に反米であり、日本を憎悪し、インド、ベトナム、フィリピンを非難し、狂信的な(大漢民族)5000 年の輝かしさ、中華大統一などの不思議な思想を単純に信用し、主張する。   さらに科学技術のコピー式進歩をオーバーに宣伝する。中国の伝統的な素晴らしい文化を活かすなどの名目を挙げて、臆面もなく詐欺的な文化、習慣を提唱したり、促進したりする。また当局の外交政策などを軍人と同じように無条件で支持する一方、「中国は『ノー』と言うことができる」(アメリカに対するある本の題名)というような過激な作品を大勢で熱心に読み返す。2001年の9•11のアメリカへのテロ攻撃を、テロリストと同じように祝杯をあげた大学生もいた。2012 年に中国本土で連続的に発生した若者たちが日本車を燃やした事件、日本風のレストランなどを攻撃した事件の中には、怒った顔をした大学生もいた。また、一部の大学生は、武力行使で台湾を「解放」しようと純血的な扇動をするが、彼らに軍服を着用させ、戦いに行かせるのは絶対に不可能であろう。彼らが、やらなければならないならば何でもやるということはあり得ないと思われる。はっきり言って、責任感、信頼性は皆無であろう。   5. アカデミックスピリットの喪失   今日の中国の大学生達の小、中、特に高校時代の勉学は、世界でも稀な猛勉である。長年の強制的な試験指向教育が、彼らに精神的拷問や無慈悲的な心理破壊を与えたと思われる。ある意味では、彼らこそ、中国で最も痛みを感じる社会階層の一つである。高校を卒業するまで歯を食いしばって我慢した彼らが入試を経て大学に入ると、直ちに解放感が生まれ、しかもこの国の国民的英雄のように自らを誇示する。残念ながら多くの親たちも彼らと呼応し、褒め称える。愚かにも、人生は大学に受かることだけのように考え、大学生活を人生の楽しさ、幸せなどを謳歌するものだと思っているようだ。   今日の大学生の大半は、授業のための教科書といわゆるベストセラー作品以外は読んだことがなく、特に古典文学のような本は一冊も読んだことがない。なぜならば大学入学の前は、受験勉強の毎日、今はスマートフォン遊び(大半はエロ グロ ナンセンス)の毎日、古典文学を読む暇など全くないようだ!彼らは寝坊、ネット遊び、恋愛、アルバイトに熱心で、9割の学生は学校をサボったことがあるそうだ(出席をとる授業はほとんどない)。講義に携帯電話だけを持ってくる学生も毎日いる。そのため、真面目に勉強している学生の割合はたった1.1%という調査結果があり、これが今の大学生問題の深刻さをはっきり示唆していると言えるだろう。   普段真面目に勉強しないので、試験中にカンニングをしなければ、科目の単位は取れない(このカンニング方法は、極めて巧妙でギネスブックに載るほどである)。提出しなければならない科目のレポートやインターンシップ後の卒業論文は、パッチワーク、盗作を中心に、他の論文から文章をかき集めるしか方法はない。従って今日多くの大学生にとって、大学に行く目的は、全てあの卒業証書を貰うためであり、人間社会の全てのルール、学術的道徳、学者の良心などを含めて、必要であれば一切を無視することができるということになっている。   人間的成熟度はもちろんのこと、学業の面では今日の大学生を3等級下げて評価した方が適切だと思う。すなわち、博士を学部学生とし、修士を専門学校の学生とし、大学本科の学生をトレニングセンターの学生と考えたほうがより実際に合うと思う。   お年寄りの方々がよく、今は信仰(追求)が欠如した時代だと言っている。大学生のモラルの低下、人間性の喪失、信用の危機……など、最終的にこれら全てが、人口過剰の現実と不可分であると私は思う。人間が溢れている社会で生きていくために早くから走り回ることで精一杯であり、人類の文明の根幹であるモラルなどに従うより、いかにして生き残るのかがより大事だと思っているからであろう。   誰の責任?   今の大学生が上述するようになった主な責任者は言うまでもなく大学生たちの親たちだと思う。この親たちは1950年代以降、つまり社会混乱が激しい時代に生まれた人々であり、中国の伝統文化を維持しつつ、更に今日の実用中心文化の両方に教育された、今日の中国社会の主力階層である。一方、子供の教育の面では、残念ながら人類文明史上、最も下手な人々でもあると思う。彼らは、自分の子供を溺愛し、甘やかして育て、贅沢、怠惰、拝金、浪費、利己主義の人間をどんどん社会に送り、元々綺麗だった大学を堕落させたのだ。他方、大学生の変態的な行為の一部は、社会及び周辺の影響(社会全体の風習にはまだ問題が多い)を受けた為でもあり、さらには自分の親から学んだ(遺伝した)ものなのだ。例えば狡猾的な人柄、信用できない、ルールを守らないことなどである。そして、試験指向の中国の教育システム(小、中、高、大学)はその基本的な責任から逃げられない!いわば中国社会全体がこの責任を持つべきだ!とすら思う。(つづく)   ---------------------------------------------------<奇 錦峰(キ・キンホウ) Qi Jinfeng>内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA会員。---------------------------------------------------   2014年11月26日配信
  • エッセイ435:張 桂娥「ゴー ホーム アゲイン、ふたたび飯舘村に~再生への長い道のり~故郷とともに生きる勇者たちに寄せて」

    あの日から3年半も過ぎて、避難先で眠れぬ夜を耐えてきた多くの帰還困難区域に住んでいた元住民たちを目の前にして、心から応援しているから復興に向けてがんばろうと軽々しく口にするのは、どんなに無責任な綺麗ごとだろうかと、思い知らされた2泊3日の飯舘村スタディツアーでした。   そもそも、今回の飯舘村スタディツアーにはるばる台湾から参加しようと決心した動機は、原発事故による放射能汚染被害の現状を台湾の大学生や国民たちに知ってもらい、被害者たちの未だに癒えぬ心の痛みを少しでも分かち合おうという漠然とした大義名分でした。実際現地入りして目の当たりにした<景色>といえば、整然とした風格ある町並みの中に立ち並ぶ立派な空き家の群れ、色づき始める里山に囲まれた田舎の綺麗な佇まいに不気味な影を落としている黒い袋の山、早秋の乾いた青空に聳えるはずだったのに無造作に置き去りにされている屋敷林居久根(いぐね)の切り株、がらんとした牛舎に張り巡らされた蜘蛛の糸に引っかかった虫の死骸など、留学時代に何度も足を運んでいた麗しき東北地方とは大きくかけ離れ、変わり果てた、見るも無残な光景でした。   かつて観光客として訪ねた福島の在りし日の面影を偲んでみたいという期待を胸にやって来た、この地域とは縁もゆかりもない私でさえ、目の前に繰り広げられた殺風景なシーンに心が痛んでやまないのに、何百年も前からこの地域に住み着き、先祖から受け継がれた土地を守り続け、鬱蒼と繁る山林をこよなく愛してきた元住民たち――あまりにも理不尽な形で未来の子孫に誇るべき故郷を根こそぎ奪われてしまった元住民たちの悲痛な心中を察すると、慰める言葉が見つかるはずもありませんでした。ただただ圧倒され、何もできなかった自分の浅はかな思い上がりを悔やんだり、いったい何しに来たのかと自分を責めたりしていました。   そんな中、自己嫌悪の渦に飲み込まれそうな私に、まぶしい光をいっぱい差し込んでくれる勇者たちと出会いました。   飽くなきチャレンジ精神で時代を先駆けるハイテクで放射能汚染と真っ向勝負に出る田尾陽一さんを始めとする<ふくしま再生の会>のメンバーたち、全く収束の見通しがつかない現状に苛立ちを感じながらも冷静沈着な判断力と圧倒的な行動力でコミュニティ再生活動を牽引する菅野宗夫さん、グローバルなネットワークを築き風化しつつある放射能汚染問題を世界中に向けて発信するためメディアの第一線を走り続けるジャーナリストの寺島秀弥さん、相馬地域に根ざした<真手(までぃ)>の信条を貫き惜しまぬ情熱で周りの人をあたたかく包み込む大石ユイ子さん、時に心が折れても故郷を思う気持ちを挫かない若者魂に光る佐藤健太さん、そして今でも足繁く通い続け、50年先、100年先にふくしまを故郷として誇れる若者のために、汚染された地域の再生という挑戦を命がけで活動を続けているボランティアの人々たち。   弱音を吐く代わりに、淡々とやるべきことに全力を尽くし、機敏なフットワークでプロジェクトをこなしている彼らの後ろ姿を見ているうちに、自分にできることが何かを考え始めました。なんて不思議なことでしょう。どんなに絶望的な災難に直面しても諦めずに己の恐怖と戦いながら苦難に立ち向かう人間の尊い姿を見ると、周りにいる人間は誰でもおのずと逞しくなり、みんなの輪に加わり一緒についていきたい気持ちがわいてくるのだと、気づかされたのです。   思い返せば、情に流されて何もわからないままにこのツアーに参加したのかもしれませんが、そこで出会った人々の真摯なる振る舞いと勇気ある行動に触れ、どこか放射能汚染に怯えていることを素直に認められない自分の心の弱さと向き合う機会を手にしました。その弱さを乗り越えないと、飯舘村の再生プロジェクトに何らかの力になれないと、大きな課題を手土産に持ち帰りました。まだ具体的に何ができるかは明言するのは難しいのですが、台湾に戻ってから機会さえあれば、飯舘村スタディツアーで見たことや体験したことを大学生に話したり、意見を交わした住民たちの考え方や再生活動の関連情報を周りの人たちに共有したりしております。   ふくしま相馬地域や飯舘村の住民たちの痛みを分かち合える日まで、まだ長い道のりです。ただ、諦めてしまってはいけません。ふくしま被害者の心の叫びを世界へ向けて発信するのも非常に有意義なことですが、うわべだけの理想論で終わりがちの復興支援ではなく、もっと地に足の着いた現実味のある活動に視野を移さねばならないと痛感した今回のツアーでした。私を含めて、スタディツアーに参加した一人ひとりの意識のささやかな変化をきっかけに、一日も早く実効ある行動に繋がればと期待しております。   ----------------------------<張 桂娥(チョウ・ケイガ)☆ Chang Kuei-E>台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本近現代文学、翻訳論。現在、東呉大学日本語学科助理教授。授業と研究の傍ら日本児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。----------------------------   2014年11月26日配信